ろくに人気のないバーの止まり木は、華のない密談にはうってつけだ。
 長い階段を降りた先の地下。目を楽しませる飾りひとつなく、あえて挙げるとすれば隅に置かれたジュークボックスのみ、それすら長年誰もコインを入れず無為に埃を被っている。そんな誰も見向きもしない煤けた店は、いま店主すら不在の貸し切りだ。まあどうせ貸し切らずとも誰も来ない。
 マゼンタが父の遺産を継いだあと、立ちくらみを起こしそうな量のレッド製薬の関連書類の中に、紛れ込むように保管されていたこの店の権利書を見つけたのが縁だった。
 仕事の話はまた別の場所でするとしても、この店は私事、それも耳目をはばかるようなめんどうな話に丁度いい。
 さては親父もこんな用途で使っていたに違いない。
 この歳で父の思惑に触れる日が来るとは思わず、マゼンタは横に座った面白くも可笑しくもなさそうな横顔へ笑い混じりに声をかけた。
「何でしょう」
「悪かったな、呼び出して。少し話しておきたいんだが」
 私に隠していることがあるだろう。
 そうじかに切り出すと、長いつきあいの側近は視線だけでこちらを向いた。
「ありません」
「いや、最初に言っておくが、私は何も咎め立てをしようというんじゃない。むしろ嬉しいくらいなんだ」
「まさか」
 鉄面皮に皮肉げな笑みが浮かぶ。
(やっぱりな。お前の立場上そうそう頷かないとは思っていた)
 昔から変わらず偏屈な男だ。
「なあ、カーマイン?」
「……。」
「さっきも言ったが、本心だ。怒ってやしない。
 お前の頑固なことは知ってるが、こんな店でまで肩肘張ることもないだろう。俺とお前の仲じゃないか」
 男だろう、しゃんとしろと背を叩いてやると、カーマインはやおら目の前のグラスを掴み、氷もろくに溶けていない中身を一気に流し込んだ。度数の強い酒を煽ったかと思えば、そのまま手酌で二杯目、三杯目と呑み干したところでついにグラスを置き、片手で顔を覆って動きを止めてしまう。
 薄暗がりの中でもはっきりと耳が赤い。
 そこから一向に動かない様子に、さすがにマゼンタはとまどった。バーボンの数杯で潰れるほどやわな男ではなかったと記憶しているが、これははたして大丈夫なヤツであろうか。
 焦った拍子に取ろうとした瓶を間違え、まだウイスキーの残るグラスへ甘ったるいリキュールを注いでしまい、マゼンタは部下と並んで仲良く頭を抱えた。さすがに飲めたものではない。
 
「俺がどれだけ考えたか、あんたはご存知ないはずですよ」
「はは、酔ったか? お前にそう呼ばれるのは何年ぶりかな」
「はぐらかさないでくれ…」
 酒を流しへ捨てていると、常態のよく響く低音はどこへ消えたのか、蚊の鳴くような声が吐き捨てるように文句をつけてきた。
「分かってる、どうせあんたは受け入れやしない」
「バカ言え、嬉しいと言ったろ。それにあれだけあからさまに熱っぽい目を向けて、わかりませんで通せると思ってもらっちゃあ心外だ。ガキじゃあるまいし」
「…総帥」
 おたがいもう若くもない男二人だ。
 そのくらいのこと、腹を割って話してもいいではないか。
 
「総帥、俺は「お前、あの子にベタ惚れじゃないか」
 
 暫時、致死量の放射能のような沈黙が場に落ちた。
 
「えっ」
 あの子、とは言うにおよばず、少し前から囲いはじめた可愛い女のことだ。
 図星を刺されて困惑しているのだろう。鋭い目を皿のように丸くしてこちらを凝視するカーマインに委細構わず、マゼンタは続けた。
「俺のためにと用意したはいいが、世話をしてる間にすっかり入れあげちまったんだろう? よくある話だ、ましてあれだけいい女なら」
「えっ」
「それにしても、お前がなあ…女遊びはソツがないくせに、いざ本気になるとそんなに初心とは…面白がって今までいじめて悪かったな」
「えっ」
 正直なところ、だいぶ前に察してはいた。
 カーマインはもともとマゼンタがどんな女と遊んでいようが涼しい顔で雑務をこなし、あらなかなかいい男と気まぐれにすり寄られても白けたように鼻で笑うだけだ。なびいた試しは一度もない。
 だというのにどうだ。自分に抱かれる彼女を見つめている時の、あの熱く狂おしいような目つきは。
 それほど好きならと抱かせてやったらやったで、常の冷静さとソツの無さはどこへ消えたのか、途端に嫉妬に狂って乱暴なあつかいを見せた。だいぶつきあいも長いはずが、カーマインのあんな顔を見たのは初めてのことだ。
 だからこそ、悪いと思いながら面白がりもした。同時に、そんなにまで惚れてしまったならくれてやってもいい。大事にするならの話だが。
 
「やる…とは」
「ああ。あれだけの女だ、欲しいと言うのが他のやつなら殺してるが、そもそも見つけたのも世話をしてるのもお前なんだ。順当だろうよ」
 話しているうちにカーマインは処理落ちから脱却したようだが、どうもまだいまひとつ反応がにぶい。
「いや、その、俺は!」
「向こうだってお前のことなら悪くは思ってないはずだ。そりゃ、俺が満足するまでしばらくは可愛がらせてもらうが…いずれは渡してやるから、そうしたらお前の嫁さんにでもするといい」
 仲人などするようなガラではないが、ことは大事な側近と可愛い愛人の話である。たまには月下氷人も良いものであろう。
 その言葉にいよいよ感極まったのか、カーマインは今度こそ完全に固まって動かなくなった。
 復活を待つあいだ手持ち無沙汰になったマゼンタはカウンターの向こうへ回り込み、自分でてきとうにカクテルなど作りはじめた。やったことはないが、他になにもすることがないというのに、唯一の連れに黙られては仕方ない。
 なお、途中でうっかりシェイカーを手から飛ばし、床を酒臭くする結果に終わった。