「ジャケットはハンガーに掛けてくださいよ、何回言わせるんですか」
「ああ、わかったわかった」
 あきらかに聞く気のない生返事だ。
 二度も同じ指示をさせるなと説教する人の行動とは思えない。第一そういう言い方は相手が萎縮するからやめたほうがいい。
 さて、電撃のような結婚の約束以降、今カーマインさんとは半同棲状態になっている。
 しかしそもそも世話役の立場をいいことに、この家をハウスキーパー付き宿泊所のように扱っていたくらいだ。肩書きが変わるだけ…いやむしろ、図体と態度のデカさを鑑みればもとから亭主みたいな振る舞いであった。
 今もそうだ。どこに紛れても一目で見つけられそうな赤いジャケットをソファの背に引っかけて、本体はノートパソコンを開いてメールチェックなどやっている。
 まあこちらも素直に聞くとは思っていない。かまわずに上着を取ろうとすると、いきなり手を掴まれた。
「なんですか」
「上着には触るな。少し待ってろ」
「ええ…?」
 いつもだったらさっさと私が片付けているはずだが、今日にかぎってこの言い方。銃だってその辺に置いておくくせに。
 さては上着の中になにか、絶対見せてはいけないようなものでも入っているんだろうか。
「どんなドスケベなお店行ったんです?」
 将来的に妻になる人間に向けるものとは思えない視線が返ってきた。
「…仮に、つきあいで行ったとして、こんな早い時間に帰ると思うのか?」
「あ、はい」
 もしも正解なら感想を聞かせてもらおうと思っていたが、違うらしい。残念だ。
 
 そんなことはともかく、私は困惑した。
 手を引かれるままなぜか彼の膝に腰を下ろし、なぜか片手でしっかりと腰をホールドされて、なぜかじっとカーマインさんの仕事が一段落するのを待っている。
 さっきはメールチェックで今度は通話だ。相手はレッド製薬の総務課で、聞いた限り内容は特に私には関係ない。
(またか)
 決まった仲になってから、彼は時々こういうことをする。
 喋っているときは完全に普段のまま、木で鼻をくくったような態度なのに、不意にキスしたり抱き締めてきたり。贈り物をくれたりもする。手段は様々だが、カーマインさんのほうもうまくやっていこうと試みてくれている…のだと、思う。やり方がわからないだけで。
(今のもそのひとつなんだろうな、たぶん)
 そう考えれば、なにもぶんなぐられるわけでもなし、退屈なくらいは我慢してあげようという気にもなる。
 コーヒーでも淹れに立ちたいのを堪えて、私はしばらくのあいだ厚い胸にくっついて待つことにした。
 思っていたよりかわいい人である。
 
 * * *
 
「待たせたな」
「だいぶ待ちました」
 時計を見たら小一時間ほどだ。本当に結構待った。
 やることはないし人肌は温かいし、途中で胸にもたれて居眠りをしてしまったが、起きたらカーマインさんは妙に機嫌が良かった。ひねくれた人だし、警戒されていないことが嬉しいのかもしれない。
「それで、上着に何かあるんですか?」
 カーマインさんはジャケットの右懐を探り、目的のものを取り出した。
 
「ほら、受け取れ」
「あ!」
 綺麗な黒いベルベットのリングケース。
 中に鎮座していたのは概ね予想通りに指輪だった。ルビーがあしらわれた本体は恐らくプラチナ。血のように赤いルビーの脇に小さくダイヤが飾られたそれは、どう見積もってもエンゲージリング以外のなんでもない。
 横には結婚指輪と思わしき、飾り気のない銀色のリングが添えてある。こちらもたぶんプラチナだ。そういう様式なのは知っているが、ふたつも買うとなればいくらくらいなのか…あまり具体的に考えると目眩がしそうなのでやめておいた。
 これは確かに、仕事してる間にうっかり見られたらカーマインさんとしては台無しだろう。この人は演出が大好きだ。
「あの…ありがとうございます、こんな、いや、すごいの買ってきましたね。綺麗な、真っ赤なルビー…」
「給料の三ヶ月分は無理だったが」
 思わず吹き出してしまった。それはそうだ。カーマインさんのお給料を三ヶ月分では指輪どころじゃない額になる。
 あまりにも綺麗で、触れるのもなんだかためらわれる。ケースに入れたままで角度を変えて矯めつ眇めつしていると、やがてごつい手が焦れたように左手を捕まえ、強引に薬指に通された。
「この前、総帥に聞かれてな。婚約指輪はどんなのを選んでやったんだと」
「あ、なるほど」
 その時に初めて思い出して慌てたらしい。
 いつものようにしれっとした表情の奥で、どうしたものかと考えを巡らせているのを想像したら愉快でしかない。
 なんだ、やっぱり結構かわいい人じゃないか。
 
 * * *
 
「こっちのは結婚指輪ですね」
「タグとでも一緒にしておくといい、俺はそうした」
 カーマインさんがシャツの中から引っ張り出したのは、レッドリボン軍から支給される丈夫が取り柄のドッグタグだ。
 無骨なチタン製のタグと一緒に上品な意匠の指輪が揺れる。
「まだお前は総帥の女だ、公認とはいえ指輪はまずい。言われた時以外は見せるなよ」
「大丈夫、分かってますよ」
 自分も首のタグを取り出す。
 チタンのボールチェーンに通した時にちらりと別の色が目に入り、私は何の気なしにプラチナの指輪をひっくり返して、それを見つけた。
「あっ!」
 婚約指輪の明るい赤とは違う、ピンクがかったあざやかな赤紫。
 いわゆるマゼンタカラーの小さな宝石が、指輪の裏側に埋め込まれている。
 
「気付いたな」
 驚いて目を見開くと、カーマインさんはいままでで一番得意げに笑った。