マゼンタ総帥はいつもの通り、一段低くなった円形のソファでタブレットを操作していた。
カーマインさんの後ろについて入室すると、俺は全部わかっているぞと言いたげな、なんとも言えず生温かい目が向けられる。
多少思うところもなくはないが、この人なりの善意だ。やはりありがたいことである。
「突然欠勤して申し訳ありません」
「大丈夫だ、お前ならそう滅多にあることでもないしな。ただ6番が西の都の新規拠点に入ってきた間諜の話を確認したいと言ってた、あとで聞いておけ」
「はい」
たしかにカーマインさんは有能な男だが、多少想定外の休みを取ったくらいで支障が出るほどレッドリボン軍及びレッド製薬はやわではないのだ。業務の流れが滞ることもなく、私が多少代わりの仕事を請け負った程度で済んだのだからまあ幸いだ。あとで昼食でもおごってもらおう。
「それで?」
少しばかり仕事の話を終えて、今日の本題はここからだ。
マゼンタ総帥は今さっきまでの組織のトップの顔をするりと消し去り、昔馴染みと話す悪ガキの表情になる。
私でもうっかりすると見逃してしまうほど自然な、流れるような変化。
まったく、カメレオンのような人だ。普段はポカばかり見ているが、この人はそれすら印象操作のために狙ってやっているのかもしれない。…いや、今のはない。完全にただ惚れた欲目で言いすぎただけだ。
我ながらちょっと恥ずかしくなっていると、カーマインさんが一歩横へずれて、私の肩に手を置いた。
「彼女とよく話し合いまして…総帥のご厚意に甘えたいと思っています」
「おっ、それじゃあ!」
「いずれは一緒になろうと」
総帥は我が事のように喜んでくれた。カーマインさんも口元に笑みを浮かべている。いつものように人を小馬鹿にするそれでなく、どこか和らいだもの。
大変いいシーンだが、私が暢気に笑っていられたのはここまでであった。
「あれ、ところできみ、何でしゃべらんのだ?」
「……。」
さすがにバレた。
私は溜息をついてじろりと横のデカい男を睨みつけたが、何事もなかったように目を逸らされた。仕方ない。
咳払いを一つ。
最初に言っておきますが、これはカーマインさんのせいです
まるで肺病の烏のようにがらがらと嗄れた声に、流石にマゼンタ総帥もぎょっとして、素知らぬ顔で眼鏡を正す自分の側近へ目を向ける。それからまた私へ視線を戻し、また横へ。
何度か行ったり来たりと視線を彷徨わせてから、やおらデリカシーもクソもない言い方をした。
「…何回やったんだお前」
総帥!
「…つい、丸一日ほど」
カーマインさん!
(このセクハラおじさん達!)
つい叫んだ声も、やはりボロボロにかすれてまったく通らない。咳き込みながら再度原因を睨み上げてもやはり表情一つも動かさないままだ。ただでさえ痛む喉を酷使させないでほしい。
昨日は本当に大変だった。
どんな心境の変化か知らないが、戻ってからカーマインさんは私をベッドに引っ張り込んで離してくれず、昼くらいには疲れ切って気絶同然に寝落ちする羽目になった。なのに起きたらまた続けるものだから、誇張なしに死ぬかと思った。そんなスタミナどこから湧いてきたんだ。
ほうほうのていでお風呂に入ったら、全身にキスマークと歯型がついていた時にはさすがに引いた。本当に何があったんだろう。花屋でヤバい薬でも盛られてきたわけじゃあるまいし。
「前から思ってたが、本気で惚れると抑制がきかんタイプだなお前。せっかく捕まえたってのに、そんなことじゃいずれ愛想を尽かされるぞ。早めに直せ」
「努力します」
断言してくださいよ
あまりにもしれっとしているから、思わず突っ込んでしまった。
「それにしてもお前が嫁さんをもらうとはなあ…知ってたか? どんな女にも見向きもしない、色仕掛けもさっぱり効き目がなくて、レッド製薬のカーマインは社長のことしか眼中にないと言われとったんだぞ」
「知ってはいましたが…」
二人そろってちょっと視線をはずしてしまった。正解ですとはよもや言えない。
だがこう来ると、いくらなんでも気の毒になってくる。マゼンタ総帥は真相を知らないし、以前聞いたところ、カーマインさんはそのことを私以外に誰にも言わず…それこそ墓まで持って行くつもりだったそうだから。
そんな命がけで惚れ込んだ相手に、たいして好きでもない相手との結婚を本気で祝福されるなんて一体どういう心境なのか。
まあカーマインさんは聡い人だから、いずれこういう時が来ることくらい想定していただろうけど。
かたや私は幸か不幸か、そんな地獄のような恋は未経験で、想像の範疇でしかないけれど。
しかし、決して気持ちのいい話ではないはずだ。そのくらいは察することもできる。
「気の早い話だが、式のスピーチは任せておけよ。気合いを入れて拵えてやるから総帥、ありがたい話ですが、お願いですからそのあたりで…
私は喉を振り絞って話を遮り、階段を飛び降りるようにソファへ降りて、ぎゅっと総帥の腕を抱いた。
まだ私はマゼンタ総帥の女ですよ? そんなに嬉しそうに人にくれてやる話をされちゃ、悲しいじゃないですか
もう勘弁してくださいと頬にキスして甘えると、総帥はそうかそうかと笑い、カーマインさんは意外そうな顔でこちらを見下ろしてきた。礼には及ばないから安心してほしい。本心も混ざっていることだし。
「しかしあんまりいい気になってきみを独占してると、カーマインのやつに恨まれちまうかな。こいつは意外と嫉妬深い」
そんな、まさか
ちらりと横目に伺う。やっぱりなんとも言いようのない複雑な顔だ。眼鏡を直すような素振りで口元を隠しているけど、隠し切れていると思うな。今日何度めだ、その誤魔化しかた。
そう思うとなんだかムカついてきたし、このあきらかに妙なおじさん達の要領をつかんできた今となれば、多少の報復は許されるのではないだろうか。
するりと立ち上がってカーマインさんのそばへ行くと、私は有無を言わさず目の前のネクタイをつかんで顔を引っ張り寄せた。
喉と腹に力を込めて、どうにか普段通りの声をひねり出す。
「そんなに羨ましいなら、一緒に可愛がってもらったらいいでしょ!」
驚きすぎて声を出せないデカい男をそのままぐいぐい引っ張って、無理やり押し付けるように総帥の横へ座らせ、私は逆側に腰を下ろした。これでいい。総帥もカーマインさんもものすごく驚いてるけど。
男の理屈なんて、女がいちいち斟酌してやるいわれがあるものか。
「お前な…いったい何のつもりで」
面食らったカーマインさんが立ち上がろうとした矢先、今さっきまでぽかんとしていたのがウソのように愉快そうな笑い声が部屋中に響き渡った。
「くく…はははははっ! こりゃあいい、お前ともあろう男がまるで形無しじゃないか! いや、きみは本当に面白い、いい女だ!」
マゼンタ総帥は片手でカーマインさんの、もう片手で私の頭をぐいっと抱き寄せ、そのまままるで大型の犬でも撫でまわすみたいにわしわしと髪をかき乱す。
「まったく、二人してそんなに私が好きかね」
はい!
「そ、総帥」
「ならしょうがない。お前たちふたりとも、まとめて可愛がってやるか!」
本当に楽しそうな笑い声と、よしよしとばかり頭を撫でる大きくて無骨な手。
向こう側のカーマインさんが完全に処理落ちを起こして固まってしまったので、ひとまずは私だけで思う存分総帥に甘えておいた。
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