本当に、大した切っ掛けではなかったのだ。
 路側帯へ停めた車を出て、足元を濡らす水溜りを気にも止めず、カーマインはつい先ほど通り過ぎたばかりの道を大股に引き返した。
 
プロポーズの場面に、差し出すのが指輪じゃなくて憎まれ口ですか。これは報告したら総帥に一発目のお叱りをいただきそうですね
 マゼンタの愛人は口が悪い。
 悪いというより素がけっこうな皮肉屋だ。笑いながらえげつない発言もすれば、何の気なくマゼンタも引くような提案をすることもある。
 それを思えば、本当に形式にこだわれと言っているわけではないだろう。むしろ女の憧れがどうの男女のセオリーがどうだの、そういったものはけむたがるタイプであり…つまり、いつものようなただの軽口。ジョークに過ぎないとわかっている。
 わかっているからこそ、突っぱねてやりたくなったのだ。
 
 軽やかなドアベルの音が鳴る。
 たった今開いたばかりの小さな花屋のカウンターの向こうで、書き物をしていた店員がびくりと顔を上げた。
「い、いらっしゃいませ…?」
 郊外の花屋など、早朝から来る客もあまりいないのだろう。接客のていは取っているがなかば誰何に近い声を無視して、カーマインは視線だけで店内を見回し、すぐケース内に目当てのものを見つけた。
「これを八本」
「えっ」
「八本だ。急いでくれ」
 思わず声のトーンが低くなる。
 これが自分の部下であったなら、指示はよく聞け、同じことを二度も言わせるなと説教をしていたところだ。
「かしこまりました! お、贈り物でしょうか」
「ああ」
 花桶から取り出され、根本を赤いリボンで飾られた花束を無造作に肩に担いで来た道を戻った。釣りはいらないとてきとうに一万ゼニー札を数枚置いてきたが、まあ支障はない。
 
「待ったか」
「いえ、それほどは…うわっ!」
 ドアを開けざま、助手席の膝に花束を投げ渡す。
 女はぽかんと口を開けて赤い花を見つめていたが、やがて運転席でベルトをつけ直すカーマインのほうへ視線を向けた。
「薔薇? これ、私にですか」
「この場に他に誰かいるか?」
「煙草でも買いに行ったのかと思った…」
 指先でそっと柔らかな花弁に触れ、驚きに丸くなっていた目元を緩ませる。そんな様子に、不意を打ってやったとばかり溜飲を下げた直後だった。
 
「嬉しい」
 とろけそうな喜色を含んだ声。
 鼻先をうずめるようにして薔薇の花束を抱きしめる、意図も皮肉も取り払われた、完全に無防備な甘い笑顔。
 カーマインは差し込もうとした鍵を取り落とした。
 
(なん、なんだ今のは!?)
 不意を打たれたのは自分だった。
 彼女の横顔から目が離せない。思考がまとまりをなくしてばらける。まるで胸の奥を鷲掴まれるような。自分はこの感情の動きならばよく知っている。驚くほどに馴染みがある。だが違う。そんなはずはない。どうしてこんな。
(まさかそんな、あの人以外に)
「鍵落としましたけど」
 指摘の声にさっと手を伸ばして鍵を拾い上げる。
 自慢ではないが、隠すことにおいては百戦錬磨。このまま何も言わずに黙っているべきだ。
 今までもずっとそうしてきたではないか。
 心のうちのことなど話さなければいい。下手なことを口にして拒絶されるか、答えもない問答をするくらいなら、最初から悟らせないに限るのだ。
 わかっていながら、気付いた時には横の女に向き直っていた。
 距離を詰めて、後頭部に手を添えて唇を塞ぐ。互いの胸の間に挟まれた赤い花が形を変えるのもかまわずに、もう片手で腰を引き寄せて、カーマインは夢中でキスを繰り返した。
 マゼンタの影を追うこともない衝動のままのキス。
 そんなものはここ何年もあり得なかった。
 男であれ女であれ、自分の感情を揺らすのはただ一人だけだ。だというのに。息を継ぐ間に聞いた切れ切れの静止の声も、湿った吐息も、甘い唾液の味も、欲を加速させる燃料にしかならない。
 耳も首も燃えるように熱かった。
 
「カーマイン、さん…まって、本当に、ダメですってば」
「…構わんだろう、別に」
「構いますよ、朝ですよ今! 何人かに見られたし…このまま続けたら、せっかくもらった薔薇がつぶれるでしょ」
 本格的に静止されてようやく我に返ったが、言われてみれば朝、それもそこそこいい時間だ。
「戻ったら、続きしていいですから…」
 片手で顔を覆ってはいるが、彼女もいつの間にか首筋まで赤い。
 
 カーマインは頭を抱えたくなった。こんなことでは困るのだ。これではまるで。
(愛し合ってでも、いるようじゃないか)