今も昔も、人斬りには墓標も戒名もない。
道半ばで前のめりに倒れ、路傍に屍を晒すが似合いの末路。そうと思えば、名の一つも刻まれていない一本の木はあの男にうってつけの墓標だろう。
抜刀斎こと緋村剣心は、そのように思った。
春を迎えたばかりのやや温まった風が艶々しい葉を揺らす、市井から少し行った先の、昼なお暗い鎮守の森深く。稲荷の鳥居のほど近いところに、艶やかな葉を繁らせ、深紅の花をつけた椿が植わっている。
何一つ問わず語らず、人斬りひとりの生死など知ったことかとただ花をつけては落とす、それだけが“黒笠”鵜堂刃衛の墓だった。
「暖かくなったでござるなあ」
つくづく思い返せば、この場所で抜刀斎に立ち返って斬り結んだのはほんの一年前の話であったというのに、それからずいぶんと色々なことがあったものだ。
「抜刀斎でない拙者が来たところで、お前が喜ぶとも思えぬが…そこは容赦してくれ」
「そこはそれ、刃衛さんを訪ねてきてくれる人なんて他にいませんし、死人に口なしで」
「…それは用法が違うでござろう、殿」
 
熊手で周囲を掃き清めていた女がこちらを向いて、笑った。
刃衛を弔いに行く、と聞いたのはつい数日前の話だが、明治政府の中枢での派閥争いに深く関わった…すなわち存在すら秘された“影”の立場に、墓などどうやって建てたものかと聞いてみたところ、はなんのこともなさそうに告げた。
“お墓じゃありませんよ、鎮守の森深くの鳥居…場所を指定して、ただ木を一本植えただけです。ひょっとしたらそこで人が死んでいたかもしれませんし、揉め事もあったかもしれませんけど…まあ、私は何も知らないんだから仕方ありませんね”
さすがに斎藤の部下というべきか。理屈の網の隙間を抜けてしれっと笑っているところはなかなかの食わせ物であった。
そうと聞けば…自分の手にかけたわけではなくとも、その死に密接に関係したゆえに、やはり足を運んで一言くらい掛けるのが筋であろう。
自分は斎藤との関係すら詳しくは知らぬが…ただ、相楽左之助が東京を出て行く前に話したことは、古くからあの男の下で使われている部下だという。
ならばやはり、新撰組時代の斎藤一や鵜堂刃衛の傍らにいたこともあるのだろうか。
血の匂いの空っ風が吹く、あの幕末の京の町で、知らずのうちにすれ違っていたこともあるのだろうか。
 
殿ではないが、まさか刃衛にわざわざ弔ってくれるような女性がいたとは)
思えば昔のことなど何一つ知らないに等しい、しかも敵同士であった自分たちが、穏やかに昔を振り返って話をしている。
そんな今こそがまるで奇妙な夢のようだ。
 
「……首」
「おろ?」
まるで思考を読んだかのように、振り返らぬままが声だけを投げてきた。
 
ぽとりと一つ。
森の奥深くに、音もなく赤い花首が落ちる。
 
「しょうがない人でね…自分が死んだら、血の滴る首を供えてくれって言ってたんですよ」
「に…女人にそんなことを言ったでござるか」
刃衛ならば言いそうではあるが。
うふふ…とは故人の口真似をすると、たった今落ちたばかりの首を両手で包んで鼻先へ寄せた。
「本物ってわけにいきませんけど、できるだけ意向に添ってみました」
「……。」
手中の赤い花を通して、碁盤の目の町並みにでも思いを馳せているのか。の横顔は平時の年齢不詳ぶりが嘘のように、どこか艶めいてすら見えた。
殿」
「はい」
「やはり、昔は新撰組に?」
「…そうです。隊服を着せてもらったこともないペーペーの雑用でしたけど」
とすれば若く見えて実年齢は幾つなのか…と一瞬考えてから打ち消した。女の年を深く突っ込むととんだ藪蛇になりかねない。
「実は浮浪児上がりでしてね、ある晩斬られた隊士の懐を漁ってたところに後ろから斎藤さんが「おい」ですよ。あっこれ死ぬなって思いました」
「よく無事だったでござるな!」
喉元過ぎればなんとやらですよ。はころころと笑って続けた。
「それで、連れて行かれた先が狼の巣穴ってわけです。
 まだ組を抜ける前の刃衛さんもそこにいて…怖い怖いと思いながら皆さんとはなんだかんだご縁があったようで、心ならずもこの年までご奉公をする羽目になりました」
「そう…で、ござったか」
 
改めて、人には様々な過去があるものだ。
それを初めて痛いほどに思い知ったのは、妻と呼んだ女を斬った時。その口から許嫁の存在を知らされた、あのいまわの際。
誰も彼もが人心を無くし、鬼になり果てたように思いながら、その実は一人として人間を辞められず、狂いきれずに藻掻いた時代だった。
それほどまでに…無理を通してでも狂わねばならぬほどに、荒れて逆巻き各人を叩きのめした風は、一先ず収まって十年経つ。
(刃衛)
鮮やかな花椿の色に目を細めながら、抜刀斎であった男は微笑んだ。
(お前は馴染めぬままに死んだが…それでも拙者は、裏にいくつもの影を含んだ、綺麗なだけでないこの平和を尊いと思う)
 
立ち位置の違いだけで互いを悪鬼のごとく呼び、血溜まりの中で斬り合った仇同士が、確かに人間であったのだと知る。
それだけのことが、今はなんとかけがえのないものであろうか。
 
人ならぬものの領域にすら思える仄暗い森にも、無情な優しさで時は流れ、花が咲く。